石戸城・砦 (天神山城

松山城と道後温泉

宇和島城

丸亀城

高松城








































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































石戸城・砦 (天神山城

松山城と道後温泉

宇和島城

丸亀城

高松城















































































































































































































































































































































































石戸城・砦 (天神山城

松山城と道後温泉

宇和島城

丸亀城

高松城
















































































































































































お城巡り



  



石戸城・砦 (天神山城)   

  

          
            石戸城  手前が一夜堤


 
             
             石戸城の近隣の城



        石戸城の歴史など


 ;大河ドラマでも平清盛の話になればスルーです。戦国武将のようなロマンを感じることがないからです。兄弟・親子・親類の相続争いは勝手にやっておればという気持ちです。

 そのような時代ですが、地元の石戸城・砦は扇谷上杉氏が古河公方に対抗するために築城しました。
 石戸の位置が鎌倉街道が通り、鎌倉から鴻巣を経て忍に通じる交通の便があり、川越と岩付、松山の城を連絡する位置にありました。

 上杉謙信が関東の争いに乗り出してきたことから、松山城攻防の後詰めのために石戸城に在城したことがあります。

 (後)北条氏が力を増して、 関東を支配する動きのなかで、北条氏邦により石戸城は落城した。

 秀吉が北条氏への小田原攻めにのときに、、その前哨戦として、関東の北条氏の諸城を攻撃して落城させた。 石田光成が忍城への水責め攻撃が有名です。
  諸城が北条氏から秀吉のものとなった。それで小田原城に孤立した北条氏が降伏して、秀吉の天下統一となる。 秀吉により家康が関東転封になり、家康の譜代牧野氏に石戸城はまかされたが、川田谷に居館を移したことで廃城となりました。



  年表

 1132  藤田八右衛門による築城ともいわれる
 1457-60  扇谷上杉家臣の大田道灌により川越城・岩付城・石戸城を築城
       古河公方に対するため、同時期に江戸城も完成。

 1525  北条氏綱が岩付城を陥落、大田資頼が石戸城に逃れる。
 1537 扇谷上杉の本拠川越城が北条氏綱により陥落
 1546 川越夜戦で上杉朝定が死亡して扇谷上杉滅亡
 1562 北条氏邦(鉢形衆)が一夜堤を築いて石戸城を陥落
 1564 上杉謙信 松山城の後詰めの際に着陣。松山城落城を知り、
     騎西(私市)城を落として帰る。 

 1590 小田原攻めで秀吉に降伏
     徳川家康のにより牧野康成に与えられたが廃城



  
    北本教育委員会調査図



    石戸城の規模と郭など

 城跡を散策してみますと、近くの松山城や鉢型城のように籠城作戦をとっても数千名の兵士が籠城できるほどのスペースはないようです。 発掘がすすみ南側に大きな構えが見いだされないかぎり、数百名の籠城しかできない面積です。城というよりは砦です。

  北・東・西の3方を川・湿地に囲まれた要害です。南側からの攻撃しかできないので、南側は大きな堀で守られています。
 北条氏邦が攻撃の際に東側の台地に陣を構え一夜堤を築いて落城させた言い伝えは理にかなっています。

 現状では目立たないところに遺跡の小さな表示があるばかりで、現代になってできたさくら堤通りを車で走行すると切通しがあるのみで、気が付かないで過ぎてしまうでしょう。
 荒川で掘った土を掘に埋めて平坦にしてしまったせいで、注意しないと分かりにくくなりました。西側崖斜面下には古くは荒川の支流和田吉野川があったようですが、ここも河川改修と湿地の埋め戻しで、現在は天神下公園のグランドになっています。東側の湿地は昔のままで、一夜堤も残されています。

 私有地になっているのでやたらなところには立ち入りできず1の郭には2−3層の天守台の跡地があるといいますが、確認できておりません。

 地元では、まだ10−20年は使える、駅西側の再開発に6億円も投じました。半分が国費で支払われるということが、その大きな開発理由でした。
 地方創生が叫ばれていますが、それなら民有地を買い上げて、城・砦の復元をめざしたらどうでしょう。もちろんオリジナルに近い木造の構造物です。壮大な天守を再現する必要もないので、費用も少なくて済むと思っています。 現在ある樹を伐採して再利用をする、エコに作ることも考えなければなりません。
 
    
    
 
    石戸城  想定図


   
   教育委員会にある古地図  鎌倉街道が通る



   
    石戸城を切り裂く現在のさくら堤通り


   
    和田吉野川(天神下グランド)より西斜面を見る
   

   
   2の郭 東側にある湿地  右には一夜堤

   

   
       1の郭

   

  
  1の郭北側


  
   1の郭北側部分 上の道が鎌倉古道


  
  鎌倉古道(堀)から見た1の郭 本郭跡



           
    北本・高尾にある民家で石戸城天守閣ではありません  笑い
     屋根にはしゃちほこもあります。りっぱな城風建物です。


  
   1の郭 西側堅堀 その1  南北に走る

  
  1の郭 西側堅堀 その2  南北に走る


  
  3の郭より1の郭前のオオタニ(堀)を望む





   2の郭


  
    鎌倉古道(堀)より右1の郭で左2の郭


  
   一夜堤  2の郭より対岸を見る




     3の郭

  


  
   3の郭前の堀

  
  3の郭北側  オオホリがあったと言われている


  
  3の郭から5の郭前に大手門があったのか?


  
  3の郭 東側斜面 右側に湿地



       4の郭

  
  4の郭  虎口と思われる場所


  
  4の郭にある石塔群  18世紀のもの


   
  4の郭 南側堀跡





  
   5の郭
 
   一番わかりにくく適当な写真なし。
  



   










     松山城(伊予)と道後温泉    

  

      


 秋山兄弟と正岡子規を育んだ伊予にある松山城に行ってきました。
賤ヶ岳の七本槍のひとり加藤嘉明が関ケ原の戦いで戦功をあげ松山城を築城した。連立式の天守であるが、昭和も初期に子天守が消失が消失して、木造で復元された。 門・櫓なども良く残っており防備のための工夫もうかがわれる。
見ごたえのある城でした。


                       


 ケ−ブルカ−やリフトが山頂の天守まで整備されている。スキ−気分でそれに乗りました。ふもとにあった2の丸3の丸からの登り道もあり、今から思えば帰りはそれを利用すればよかったように思います。

 道後温泉近くに湯築城が公園として残っており、これも見たかったけれど、逃してしまいました



       道後温泉


            

  上の写真は道後温泉の本館です。これを代表としてひなびた温泉街が続くのかという勝手な事前の想像でしたが、期待はずれでした。 410円程度の入浴料でお湯につかれるのは良心的です。さすがに有名な観光地だけあって、にぎわっていてイモを洗うようなものでした。温泉の質は温泉オンチの爺爺にはわかりません。


      
       ぼっちゃん列車 予約が必要です。

 松山は四国の地方の小都市だけあって、落ち着きが感じられて、都会的なこととのまとまりもあり、住みたい気持ちになりました。 名古屋の市電が全盛であったときに育ったので市電には愛着があり、なつかしい思い出です。


          2016-2-18












     宇和島城

     

          

 藤堂高虎によって築かれた。現在は埋め立てられて海城には見えませんが、西側は海に接していた。現在は天守が残るのみで大手門が空襲で焼失して門は残っていない。現在の登山口にある門は武家屋敷にあった長屋門を移築したものである。しかし天守は江戸時代の建造で残存する日本12天守のひとつです。


      

 天守付近に居たボランテイアガイドさんの説明によれば、伊達の分家のはずですが、意外なことに、嫡男(嫡子ではなく庶子)が初代宇和島藩主であった。それというのは、秀吉の人質として秀頼とともに大事に育ったので、徳川にはばかるところがあり、本家の相続は次男がした。家康が伊達政宗への100万石・報奨の1部として、正宗が家康に進言して宇和島に10万石を賜った。

 宇和島藩は進取の気風が幕末まで残り、高野長英や大村益次郎を採用し、蒸気船の建造もしている。 我がおカミさんによれば、仕事でこちらにきたことがあるのですが、農業で新しいことを進んで取り入れているのだそうです。現在でも進取の気風がある土地だと話してくれました。
 おだやかな気候とこじんまりとまとまった雰囲気は好印象で住んでみたいところです。


    
    宇和島城より宇和海を望む


          2016-2-23


  









    丸亀城   

  


                 
                  丸亀城  遠景


    
      天守

  日本12現存天守のひとつ丸亀城に行ってきました。1597年。生駒親正が築城に着手。1国1城で廃城になる。1643年山崎家治が再築した。1658年京極高知が6万5000石で丸亀藩主となる。1660年天守完成。

 何といっても近世の城郭ゆえ石垣が美しい。高くて上に行くと垂直になっています。これがすばらしい。 
 四国の城は海を利用した海城が多いのですが、ここも現在はその面影が少ないけれど古地図にはそのように描かれています。


             
                          大手一の門


    
    大手二の門   桝形虎口になっている




   生駒親正
  

  美濃可児に生まれる。信長の美濃攻めに臣下となる。信長により秀吉配下の武将に任じられる。秀吉に1000石与えられ戦功を重ねて、さぬき17万1800石になる。関ケ原では子は東軍に属して、親正は西軍に与した。負けたので高野山に入る。子が家康についたので本領は安堵された。後にお家騒動のため改易になった。




            京極高知 (きょうごくたかかず)
            

 1637年松江26万石の叔父京極忠高の末期養子になる。高知は播磨龍野6万石に減封となった。1660年丸亀藩6万石に転封となる。 忠高が側女に産ませた子であるともいわれている。
 忠高の父・高次はいとこの正室・初(浅井3姉妹の一人)とは子供が無かった。それで妹で徳川秀忠の正室お江の娘・初と忠高は結婚した。高知はそれで徳川家に知られたくなかったのでしょう養子とされた。

 また、父の弟に同名の高知(丹後12万石)がいる。父の高次は関ケ原の前哨戦の大津城籠城戦で有名である。


        2016-4-5










     高松城 (玉藻城)

  

 秀吉の四国平定で讃岐の領主となった生駒親正により築城された。
瀬戸内海にある城は海城が多い。宇和島、丸亀、松山城なども、現在は埋め立てられてその面影は薄いけれど、城の一端は海に接していて防備と海への進出を兼ねた海城である。 水軍を指揮して参戦することも多い。

 堀には海水が引き込まれ場内に軍船が出入りできるようになっていた。 現在でも鯛などが堀で泳いでいるのが見られる。


             
             本丸が無くなる前の海側から見た高松城



  
  本丸へ続がる唯一の蛸橋



  
  明治17年に天守は解体された



  
  海側にある現存する月見櫓


 思ったより現存する規模が小さかったので、期待外れのところもあった。海からの子の城の眺めは有名であったので、またs最大の海城ともいわたので、惜しまれる。


     2016-5-8