新鎌倉古道





 郷土史


源範頼

源範頼 ゆかりの地 その2

源範頼のお墓


源範頼の子孫

石戸城・砦 (天神山城)

石戸藩

鎌倉古道の石像


陸軍桶川飛行学校


































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































                                はやめ                        

    郷土史



        源範頼

 
                  
                 1150-1193?

   源範頼は義経と同様な運命になった割には知られていません。地元にゆかりと言われるものがあるので調べてみました。
 頼朝の異母弟で、義経の異母兄です。遠江国蒲御厨で生まれ育ったので蒲冠者,蒲殿
と呼ばれる。兄の頼朝の代官として源義仲(木曽義仲)追討の大将軍となり、上洛して弟の義経軍と伴に義仲を滅ぼす。 一の谷合戦では3万と言われる主力大手軍を率いて戦い、また義経軍は1万の搦手軍を率いてその奇襲により平家に勝利した。その後中国と九州の平氏側の御家人を味方につけ平氏を長門国に孤立させる。そのせいで義経は屋島の戦いで勝利する。続いて壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させた。 義経と頼朝が対立した、義経は藤原泰衡の襲撃により自害する。頼朝の奥州藤原氏を滅ぼした軍に参戦する、これが最後の出征となる。 曽我兄弟の仇討事件をきっかけにして謀反の疑いを受ける。伊豆の修禅寺に幽閉され謀殺されたという。
 平家滅亡までは主力を率いて勝利し貢献大なる殊勲です。義経が有名ですが範頼が平家の主力を押さえていたからこそ、義経の奇襲が成功したともい云えます。
 頼朝は封建制の常で兄弟はいつもライバルです。うまく弟たちを使ったともいえますが、3代で鎌倉幕府が滅びる原因にもなりました。


 

    範頼ゆかりの地 その1


 1. 蒲さくらは、範頼の杖についていた種が成長して、蒲冠者のいわれから名がついた樹齢800年以上の桜です。蒲桜の根本にある墓石は逃れ住んだ範義のものといわれている。

     
      北本市 石戸蒲さくら 天然記念物


     
     東光寺 範頼創建といわれている


2. 範頼の妻、亀御前は範頼の死を知り、荒川に薙刀を持って身を投げて、その薙刀が常勝寺に残されているといいます。(ここはシナ駐屯第1歩兵連隊供養地の寺でもある)

         
          常勝寺  


 3. 北本市にある高尾阿弥陀堂は亀御前を供養するために建てられたといわれている。高尾さくら公園隣にある。 亀御前の石塔と薙刀は常勝寺にここより移されたといいます。

                    
                     高尾阿弥陀堂 鐘楼


  4.. 石戸神社は1199年に亡くなった範頼の息女・亀御前の供養のために建てられたといわれている。遺跡堀之内館の中にあり源範頼の住居の地とも伝えられている。


              
                   石戸神社                
  
 
  石戸神社入口

    
     
     神社の奥にある2つの小さな社この後ろに土塁と堀の遺構がある

                                     
                    土塁と堀の遺構

  
       石戸神社由来

         
   鎌倉街道・古道を探るに地図がありますのでそれも参照してください。


  

     交通

   北本駅西口から北里メデイカルセンター行きバスで15分・190円
    蒲桜行も少数あります。



           2015-7-14



 











     源範頼 ゆかりの地 その2  

 
  源範頼の居館跡は北本にある石戸神社を含む堀之内居館跡と吉見にある現在は息障院というお寺に居館跡の2つです。

 吉見にある居館跡を訪ねてみました。住所は吉見町御所374で御所という地名を今でも残しています。 落ち着いた境内のたたずみです。 庭もよく手入れされています。 南東部にある幼稚園を経営されているようで、財政的に安定しているお寺だとうかがわれます。

 近くに安楽寺があり、範頼が平家の追及を逃れるため稚児僧として隠れ住んだ地と言われています。安楽寺も訪ねました。吉見観音とも呼ばれています。息障院から徒歩で二〇分ほどです。

 ここの本堂と三重の塔は範義が建てたといわれています。戦国の争いで近くの東松山城の戦いのときに焼失しました。現在の建物は江戸時代の再建です。ここは義経の鞍馬寺と同じ立位置にあるお寺ということになります。風情のある良い寺院です。
 


      範頼居館跡・息障院


  
   息障院の門


  
   息障院の本堂


  
    息障院の長屋門


  
  北西角の空堀と水堀


 
   南側の空堀 塀は息障院のもの


 
  南西部から南側空堀を望む




     安楽寺・吉見観音


  
   安楽寺・吉見観音


 
  安楽寺 三重の塔


   2015-9-22

  








    源範頼のお墓  

 

  範頼のお墓は伝説により8か所あります。まだまだありそうです。

 有名なものは伊豆の修善寺にあるものです。範頼は、ここに幽閉され梶原景時に包囲されたとありますので、ここで亡くなった可能性は高いと思います。 その遺骸は家臣のものではないかということで、日本中のあちこちにお墓ができるようになりました。

 後世には地元以外には忘れ去られた人物ですが、これらのお墓の数より、当時では人望もあり評価された人物であったのでしょう。

 源範頼の子孫・吉見氏が能登や広島・安芸郡に領地を構えたところから、逃亡伝説もそこにはあり、お墓もあります。生きていてほしいとの願望・希望が伝説として伝えられたました。


 1. 埼玉県北本市 東光寺蒲桜下の石塔
    東光寺には範頼の位牌が保管されている

 
 

 2. 伊豆市修善寺

  
  伊豆市修善寺の墓

 3. 横須賀市金沢区

   
  横浜金沢区 大寧寺の墓


4. 伊予市上吾川 称名寺・鎌倉神社 鎌倉塚

  



  
  夏目漱石の句碑


  蒲殿のいよいよ悲し、かれ尾花        夏目漱石

 木枯しや、冠者の墓撲つ落松葉        夏目漱石




  5. 広島市佐伯区三宅 観音神社 

  
   五輪塔



 6.鳥取市河原町の霊石山中腹 

  
   五輪の塔


  7.. 浜松市南区飯田町 稲荷山龍泉寺 

  


  
 8. 長門市 三隅中の生島山中

  



     2015-11-3











    源範頼の子孫   準備中


 源範頼を祖とする家系は残りました。範頼は吉見郷を領して吉見御所と尊称された。今でも埼玉県吉見町にある居館跡といわれる場所は御所という地名が残されています。

 次男の範園と3男源昭が外曾祖母である比企尼から、武蔵国横見郡吉見庄を分与された。範園の子から吉見氏を名乗る。5代目の義世は謀反が発覚して処刑される。その子である尊頼は渋川氏に養子入りしたため嫡流は絶えて家督と所領は2代義春の弟で能登吉見氏の頼隆に引き継がれた。能登と丹波に下向した能登吉見氏,石見吉見氏(範園の庶子の系統)がある。










        石戸城・砦 (天神山城)   

  


          
            石戸城  手前が一夜堤


 
             
             石戸城の近隣の城



        石戸城の歴史など


 ;大河ドラマでも清盛の話になればスルーです。戦国武将のようなロマンを感じることがないからです。兄弟・親子・親類の相続争いは勝手にやっておればという気持ちです。

 そのような時代ですが、地元の石戸城・砦は扇谷上杉氏が古河公方に対抗するために築城しました。
 石戸の位置が鎌倉街道が通り、鎌倉から鴻巣を経て忍に通じる交通の便があり、川越と岩付、松山の城を連絡する位置にありました。
 上杉謙信が関東の争いに乗り出してきたことから、松山城攻防の後詰めのために石戸城に在城したことがあります。

 (後)北条氏が力を増して、 関東を支配するようになり、その動きで北条氏邦により石戸城は落城した。

 秀吉が北条氏への小田原攻めにのときに、、その前哨戦として、関東の北条氏の諸城を攻撃して落城させました。 石田光成が忍城への水責め攻撃が有名です。
  諸城が北条氏から秀吉のものとなった。北条氏が降伏して、秀吉の天下統一となる。家康が関東転封になり、家康の譜代牧野氏に石戸城はまかされたが、川田谷に居館を移したことで廃城となる。



  年表

 1132  藤田八右衛門による築城ともいわれる
 1457-60  扇谷上杉家臣の大田道灌により川越城・岩付城・石戸城を築城
       古河公方に対するため、同時期に江戸城も完成。

 1525  北条氏綱が岩付城を陥落、大田資頼が石戸城に逃れる。
 1537 扇谷上杉の本拠川越城が北条氏綱により陥落
 1546 川越夜戦で上杉朝定が死亡して扇谷上杉滅亡
 1562 北条氏邦(鉢形衆)が一夜堤を築いて石戸城を陥落
 1564 上杉謙信 松山城の後詰めの際に着陣。松山城落城を知り、
     騎西(私市)城を落として帰る。 

 1590 小田原攻めで秀吉に降伏
     徳川家康のときに牧野康成に与えられたが廃城


  
    北本教育委員会調査図



    石戸城の規模と郭など

 城跡を散策してみますと、近くの松山城や鉢型城のように籠城作戦をとっても数千名の兵士が籠城できるほどのスペースはないようです。 発掘がすすみ南側に大きな構えが見いだされないかぎり、数百名の籠城しかできない面積です。城というよりは砦です。

  北・東・西の3方を川・湿地に囲まれた要害です。南側からの攻撃しかできないので、南側は大きな堀で守られています。
 北条氏邦の攻撃の際に東側の台地に陣を構え一夜堤を築いて落城させた言い伝えは理にかなっています。

 現状では目立たないところに遺跡の小さな表示があるばかりで、現代になってできたさくら堤通りを車で走行すると切通しがあるのみで、気が付かないで過ぎてしまうでしょう。
 荒川で掘った土を掘に埋めて平坦にしてしまったせいで、注意しないと分かりにくくなりました。西側崖斜面下には古くは荒川の支流和田吉野川があったようですが、ここも河川改修と湿地の埋め戻しで、現在は天神下公園のグランドになっています。東側の湿地は昔のままで、一夜堤も残されています。

 私有地になっているのでやたらなところには立ち入りできず1の郭には2−3層の天守台の跡地があるといいますが、確認できておりません。

 地元では、まだ10−20年は使える、駅西側の再開発に6億円も投じました。半分が国費で支払われるということが、その大きな開発理由でした。
 地方創生が叫ばれていますが、それなら民有地を買い上げて、城・砦の復元をめざしたらどうでしょう。もちろんオリジナルに近い木造の構造物です。壮大な天守を再現する必要もないので、費用も少なくて済むと思っています。 現在ある樹を伐採して再利用をする、エコに作ることも考えなければなりません。
 
    
    
 
    石戸城  想定図


   
   教育委員会にある古地図  鎌倉街道が通る



   
    石戸城を切り裂く現在のさくら堤通り


   
    和田吉野川(天神下グランド)より西斜面を見る
   

   
   2の郭 東側にある湿地  右には一夜堤

   

   
       1の郭

   

  
  1の郭北側


  
   1の郭北側部分 上の道が鎌倉古道


  
  鎌倉古道(堀)から見た1の郭 本郭跡



           
    北本・高尾にある民家で石戸城天守閣ではありません  笑い
     屋根にはしゃちほこもあります。りっぱな城風建物です。


  
   1の郭 西側堅堀 その1  南北に走る

  
  1の郭 西側堅堀 その2  南北に走る


  
  3の郭より1の郭前のオオタニ(堀)を望む





   2の郭


  
    鎌倉古道(堀)より右1の郭で左2の郭


  
   一夜堤  2の郭より対岸を見る




     3の郭

  


  
   3の郭前の堀

  
  3の郭北側  オオホリがあったと言われている


  
  3の郭から5の郭前に大手門があったのか?


  
  3の郭 東側斜面 右側に湿地



       4の郭

  
  4の郭  虎口と思われる場所


  
  4の郭にある石塔群  18世紀のもの


   
  4の郭 南側堀跡





  
   5の郭
 
   一番わかりにくく適当な写真なし。
  



     2015-10-1










      石戸藩     

  
  武蔵国石戸領とは現在の埼玉県上尾市北西部から鴻巣氏南西部の荒川の右岸地域をいいます。

領地は、具体的には畔吉村、小敷谷村、藤波村、小泉村(以上 現上尾市)、日出谷村、川田谷村(現桶川市)、石戸宿(現北本市)、馬室村(現鴻巣市)

桶川市川田谷に陣屋がおかれた。遺跡を示すものは残っていない。立て看板もない。石戸城を廃して川田谷陣屋で政務をおこなう。でも江戸屋敷に主人は住んでいたことでしょう。 10年余で加増されたところから、関東の要地関宿に移封されて、関宿藩となる。
 子の家来の子孫から鈴木貫太郎がでます。

  
  川田谷陣屋跡  圏央道桶川北本インター料金所近く
  高速道路建設に伴い移設されている

  
  同じく反対側の墓地、地元の老人によると、ここら当たりが陣屋跡で
  あるとのこと。

   


 牧野信成(のぶしげ) 初代石戸藩藩主 

 1578  牧野康成の3男として生まれる
 1599  家督を継ぐ
 1633 石戸藩できる
 1644 1万7千石に加増され下総国関宿藩に移封、石戸藩は廃藩。石戸領5千石は隠     居料となる。

     2015-10-19



 











        鎌倉古道の石像 すべて    
       桶川芭蕉句碑より鴻巣平間まで  新33か所めぐり

 
 鎌倉古道を歩いていると、庚申塔や馬頭観音に良くお目にかかります。古くからのものが大事にされているということです。それが古道をさがす目安にもなったりします。庚申塔には見ざる聞かざる言わざるの猿が彫り込まれているものも多いです。ご利益があるかもしれず歩きながら探してみましょう。


    庚申塔・塚

  道教に由来する庚申信仰による石塔。人間の体内にいる三尺虫が庚申の日に天帝に悪事を報告しに行くとされているので、庚申の日の夜は眠らないで勤行したり宴会をする風習がある。道標を兼ねることも多い。


   馬頭観音
 
  観音菩薩の変化身の一つ。民間信仰では馬の守護神とされている。ここらあたりの地名は原馬室・滝馬室など馬室にちなんだものが多いので、いっそう信仰が厚いのかもしれません。

   お地蔵様

  子供の守り神として信じられており、道祖神として村の守り神、交通安全の神として信仰されている。


  
  鎌倉古道にある石像 (庚申塚・道標・馬頭観音・供養塔・道祖神など)は桶川・芭蕉句碑から鴻巣・平間まで、はたして何か所あるのでしょうか? まとめてみました。 神社や寺・墓地の境内にあるものは除きます。境内にあっても街道側を向いているものは含みます。あくまで街道端にあるものに限ります。その設置されている場所には2−3個あることも多いですが、それは1か所とします。

   答えは  33か所です。50-100mに1か所はありますので、古道あるきのつれずれに探してみてください。


 1. 芭蕉句碑から舟とみち道標まで



  
   芭蕉句碑


  
  天神社墓地のお地蔵さん


 
  さくら堤脇に石塔


 
  さくら堤通り トイレ脇の石塔


 
 隠れ供養塔・道標の近くの石塔


 
  隠れ供養塔・道標の石塔
  

  
  さくら堤通り 石塔


  
  保育園脇 石塔


  
  北向き地蔵


  
  須賀神社 道祖神


  
  舟のみち道標






 2  舟と道 道標・北本より鴻巣・平間まで


  
  高尾付近のお地蔵さん


  
  鉄砲宿付近の石塔1


  
  鉄砲宿付近の石塔2


  
  鉄砲宿付近の 石塔3


  
   鉄砲宿にある 石塔群

  
  
  鉄砲宿付近の 判読不明の道標?


  
   珍しい昭和40年代の馬頭観音


  
  地蔵堂付近の石塔

  
 
 地蔵堂角にある石塔
   上尾道路完成の折には移動される可能性あり?



 
  地蔵堂近くの馬頭観音 



  
   白雲荘入り口交差点 付近の石塔


 
  観音堂 付近の石塔

 
   
  馬室小学校 付近のお地蔵さま


 
 常勝寺入り口付近の石塔


 
 常勝寺 墓地にあるお地蔵


  
 常勝寺墓地境界にある 壊れた石塔


  
  名称不明のお堂にある石塔

  
  陸橋ができて忘れられた古道にある石塔群

 
  金網の中に鎮座されたお地蔵さま


 阿弥陀堂 境内 地蔵様と石塔群

 
  間室氷川神社入り口

 
  鴻巣平間交差点・消防署付近 庚申塔
 

       2015-10-16











      陸軍桶川飛行学校

   

       


 旧日本軍の飛行学校の建物として76年物間生き残った珍しい建物です。